2021年3月30日火曜日

山谷詩0319

0319戯詠猩猩毛筆①

戯に猩猩毛の筆を詠ず

1桄榔葉暗賓郎紅   桄榔 葉暗くして 賓郎紅し
2朋友相呼堕酒中②  朋友 相い呼び 酒中に堕つ
3政以多知巧言語   政に多知にして言語を巧みにするを以て
4失身来作管城公③  身を失して来りて管城公と作る


1明窓脱帽見蒙茸   明窓に帽を脱ぎ蒙茸を見る
2酔着青鞋在眼中④  酔いて青鞋に着くるは眼中に在り
3束縛帰来儻無辱   束縛せられて帰り来たれども 儻しくは辱とする無し
4逢時猶作墨頭公⑤  時に逢わば猶お墨頭公と作らん

【通釈】

  戯れに猩猩の毛の筆を詠んだ

桄榔は葉を暗く茂らせ、檳榔は紅い実をつける。そんなところで仲間と呼び合いながら、人がしかけた酒を飲んで捕えられる。猩猩は物知りで言語を巧みにあやつるので、死んだあとは「管城公」になった。



明るい窓辺で帽子を脱ぐと、髪はぐしゃぐしゃ。酔って草の履き物をはいた様子が目に浮かぶ。しばられて帰ってきたが、ひょっとすると恥ではないかも知れない。時に恵まれれば「墨頭公」となるだろう。

【任淵注】

①山谷に此の詩の跋があり、「銭穆父(銭勰)[1]が高麗に使いしたとき、猩猩の毛の筆を得て、とても大事にしていた。私に恵んで、詩を作らせた。蘇子瞻(蘇軾)はその毛が柔らかくしなやかで思い通りに書けることを好み、私の机のそばを通りがかるたびに、筆を下ろして休むことがなかった。この当時、二公(銭勰と蘇軾)はともに(中書省)紫微閣で仕事をしていたので、私は二詩を作って、前篇(0318「和答銭穆父詠猩猩毛筆」)を穆父に奉じ、後篇(この詩のこと)を子瞻に奉じた」という。

②『花間集』の欧陽炯「南郷子」詞に、「路は南中に入り、桄榔葉暗く蓼花紅し」とある。『本草』に、「桄榔は嶺南の山谷に生ず」「賓郎は南海に生ず」とある。「酒中に堕つ」は上注(0318「和答銭穆父詠猩猩毛筆」の「愛酒酔魂在」の注)[2]を見よ。

③老杜の「鸚鵡」詩に「紅觜謾りに多知」とある。退之の詩に「惜しい哉、此の子言語を巧みにす」とある。また「毛穎伝」に「諸を管城に封じ、管城子と号す」とある。『易』に「臣密ならざれば、則ち身を失う」とある。按ずるに劉夢得の「楽天の鸚鵡に和す」詩に「誰か聡明顔色を好むを遣り、争いて須らく安置して深籠に入らしむ」とある。この詩と同じ趣旨であるが、山谷の語はより巧みである。

④筆の覆いをとって、ぐしゃぐしゃした様子を見ると、猩猩が酒を飲んで履き物をはいたときのように見える。老杜の詩に「帽を脱ぎ頂を王公の前に露わす」とある。ここは借用した。退之の「毛穎伝」に見える「冠を免じて謝す」のようなものである。『詩』に「狐裘蒙茸たり」とある。「鞋を著く」は上注に見える。老杜の詩に「青鞋布襪 此より始めん」とある。『選』詩に「薛茘 眼に在るが若し」とある。老杜の詩に「漢武の旌旗 眼中に在り」とある。

⑤意は、東坡が謫籍から戻ったことをいう。鮑叔牙は「管仲には魯に束縛された時のことを忘れさせないでください」と言った。「毛穎伝」に「その族を聚めて束縳を加えん」とある。『晋書』に「諸葛恢、名は王導、庾亮に次ぐ。明府当に黒頭三公と作るべし」とある。また「王珣伝」に「桓温曰く、王掾当に黒頭公と作るべし」とある。按ずるに『北史』「古弼伝」に「弼は頭が尖っていたので、帝はいつも筆頭と呼んでいたことから、当時の人々は筆公と呼んだ」とある。そこで山谷は筆の詩にこのことを用いた。

【補注】

[1]元豊七年(1084)に高麗に使いし、「猩猩毛筆」を得て黄庭堅に詩を添えて贈った。

[2]『唐文粋』巻七七「裴炎猩猩説」を引く。大意は、阮研という人が封渓に使いした際に村人から聞いた話で、猩猩は山や谷に数百の群れでいるが、酒を道ばたに置き、草で履き物を作ってむすびつけておくと、はじめは履き物を見て罠だと気づき、仕掛けた者の祖先の名を罵って立ち去るが、結局はまたやってきて酒を飲み、酔っぱらうと履き物をはいて村人に捕まってしまう、という。

2021年3月16日火曜日

山谷詩0505

0505戯詠蝋梅二首①

  戯れに蝋梅を詠ず二首

1金蓓鎖春寒   金蓓 春寒に鎖され
2悩人香未展   人を悩ます 香り未だ展かれず
3雖無桃李顔   桃李の顔(かんばせ)無しと雖も
4風味極不浅②  風味 極めて浅からず
 

1体薰山麝臍   体は山麝臍に薫り
2色染薔薇露   色は薔薇露に染む
3披拂不満襟   披払すれど襟に満たず
4時有暗香度③  時に暗香の度(わた)る有り

【通釈】

  戯れに蝋梅を詠う二首

黄色のつぼみが春の寒さに閉じ込められ、人を悩ませる、よい香りがまだ伝わってこなくて。身は山の麝香のように香り、色は薔薇の露で染めたよう。桃や李のような華やかな色はないが、上品な味わいは極めて深い。


身は山の麝香のように香り、色は薔薇の露で染めたよう。手をふってかごうとしても香りは襟いっぱいに入りこまず、時にどこからともなくひそやかに伝わってくる。

【任淵注】

①山谷はこの詩の後に、「都に一種の花があり、香りは梅に似ていて、花は五弁、にぶく暗い色で、女工が蝋をこねて作ったようである。そのため都の人々は蝋梅と呼んでいる。木のようすと葉は蒴藋(そくず)に似ている。竇高州(不詳。高州は今の広東省の地名)の家に茂みがあり、園いっぱいに香っている」と書いている[1]。王立之の『詩話』[2]に「蝋梅は山谷が初めてこれを見て戯れに絶句二首を作り、そこで都に広まった」とある。

②『集韻』に「蓓は蕾、花のつぼみである」とある。蓓の音は倍、蕾の音は磊と同じ。楽天の詩に「愁い郷心を鎖ざして掣(ひ)けども開かず」とある。老杜の詩に「韋曲 花は無頼にして、家家 人を悩殺す」とある。「桃李顔」は、もとは「桃杏紅」であったが後に改めた。太白の詩に「松柏 本(も)と孤直、桃李の顔を為すに難し」とある。「風味」は上注(0504「柳閎展如蘇子瞻甥也其才徳甚美有意於学故以桃李不言下自成蹊八字作詩贈之」第五首「風味窺大雅」の注)を見よ。『晋書』に、庾亮が「私はここでも興は浅くない」と言った[3]、とある。

③林逋の「梅詩」に「小園の煙景 正に凄迷たり、陣陣たる寒香 麝臍を圧す」とある。陶隠居(陶弘景)が『本草』に注して「麝は、姿は麞(くじか)に似ていて、柏の葉を常食する。中には夏に蛇を食べすぎて、秋に分泌液が盛んになり、春に急に痛くなって、自分で脚で剔(けず)り出すものがいる。人がこれを得ることができれば、香りはものすごい。雷公曰く、蹄の尖端を使って臍を弾く、その香の値は真珠と同じ」とある[4]。楊文公(楊億)の『談苑』に「南唐の金陵の宮中の人々は、薔薇水で白絹を染めていた。ある晩、外に出したまま取り込むのを忘れて、濃い露に浸かったために色が鮮やかな翠色の倍ほどに染まった」とある[5]。案ずるにいま嶺南(今の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と湖南省・江西省の一部)では薔薇露[6]で衣を黄色く染めている。『荘子』に「風は北方に起こり、一(ある)いは西し一(ある)いは東し、上に在りて彷徨す。孰れか是を嘘吸し、孰れか無事に居て是を披払するや」とある。『文選』の陸士衡の詩に「形に循(したが)えば衿に盈たず」とある。林逋の「梅花詩」に「暗香浮動 月黄昏」とある。「披拂不満襟」は「不盈懐」に作るテキストもある。案ずるに『文選』の「古詩」に、「馨香 懐袖に盈つれども、路遠くして之を致す莫し」とある。

【補注】

[1]徐邦達『古書画過眼要録(晋・隋・唐・五代・宋書法)』(湖南美術出版社、1987年、289頁)では黄庭堅の書を「蝋梅詩」(0908「出礼部試院王才元恵梅花三種皆妙絶戯答三首」)の識語とし、「…能香一園」に続けて「前二篇戯詠此花、後一篇於故人張仲謀□此花(前二篇は戯れに此の花を詠み、後一篇は故人張仲謀に此の花を□す)」がある、という。鄭永暁『黄庭堅全集 輯校編年』上冊、江西人民出版社、2008年、438頁、参照。蝋梅は唐梅(カラウメ)、十二月から二月にかけて黄色い花を咲かせる。香りが高い。花弁は蝋細工のようなツヤがある。梅の名があるが、梅とは別属。花やつぼみから抽出した蝋梅油は薬に用いられる。蒴藋はそくず。スイカズラ科の多年草。実は小粒で赤く熟す。漢方では根と葉を神経痛などの薬にする。くさにわとこ。

[2]『王直方詩話』は後に散逸した。王直方(1069~1109)、字は立之、号は帰叟。江西詩派とされ、黄庭堅にその文を愛された。

[3] 『晋書』「庾亮伝」に、「庾亮が武昌にいた頃、佐吏の殷浩らが秋夜に連れ立って南楼に登り、ふと庾亮が来たのに気づき、立って席を譲ろうとしたら、庾亮はゆっくりと『諸君はどうぞそのまま。私はここでもなかなか楽しい』と言った。そうして床几に腰かけて、殷浩らと坐が終わるまで談笑した」とある。『世説新語』容止篇にも同様のエピソードが載せられている。黄庭堅がこの詩を作った時も、独りではなく友人たちと一緒に蝋梅見物に行ったことを示している。

[4]麝臍はジャコウジカの睾丸、借りて麝香のこと。繁殖期に雄は下腹部の麝香腺嚢に分泌物をためる。これを採取して麝香とする。陶弘景『本草経集注』は後に散逸したが、増補が繰り返され、任淵の時代には徽宗の大観二年(1108)に刊行された艾晟『経史証類大観本草』(『大観本草』)などが利用できた。

[5]『談苑』は楊億(口述)・黄鑑(筆録)・宋庠(整理)の著、後に散逸した。いま見られる『楊文公談苑』一巻に任淵が注に引く文は見えない。宋・江少慶『事実類苑』巻四九に、ほぼ同じ文が見える。

[6] 「薔薇水」や「薔薇露」は、ローズウォーターのような香水と思われる。

2021年3月11日木曜日

山谷詩1508

1508以椰子小冠送子予

  椰子の小冠を以て子予に送る

1漿成乳酒醺人酔   漿 乳酒を成して人を醺じて酔わしむ
2肉截鵝肪上客盤   肉は鵝肪を截って客盤に上す
3有核如匏可彫琢   核有り匏の如くして彫琢すべし
4道装宜作玉人冠①  道装 宜しく玉人の冠と作すべし

【通釈】

漿(液体)は乳酒(馬肉と葡萄で作った酒の名)となり、人を酔わせる。果肉は鵝肪(鵞鳥の白い脂肪)を切って客人の盤に並べたよう。タネは匏(ひさご)のように大きく、彫刻することができる。道装(道教徒や仏教徒の装束)をする時には、玉人(位の高い人)の冠にしてください。

【任淵注】

①『交州記』に「椰子の中には漿(液体)があり、これを飲むと酔える」とある。『図経本草』に「椰子は嶺南の州郡に生じる。実は大きく瓠ほどで、殻はまるく堅い。中に果肉があり、白くて豚の脂肪のようで、厚さは半寸ばかり。味は胡桃にも似ている。果肉の中には漿があり、乳のようで、これを飲むと涼しく、気が醺じる(酔う)」[1]とある。老杜の詩に「山瓶の乳酒 青雲より下る」とある。退之の詩に「鵝肪 佩璜を截る」とある。

【補注】

[1]『大観本草』巻十四「木部下品」の「椰子皮」条と文字にやや異同がある。『大観本草』では「図経曰、椰子、出安南、今嶺南州郡皆有之。木似桄榔無枝条、高数丈。葉在木末如束蒲。実如挂物。実外有粗皮,如棕包。次有殼、円而且堅。里有膚至白如豬肪、濃半寸許、味亦似胡桃。膚裏有漿四・五合如乳、飲之冷而氛醺。人多取殼為器、甚佳。不拘時月採、其根皮用。南人取其肉、糖飴漬之、寄至北中作果、味甚佳也」とある。

2021年3月10日水曜日

山谷詩0109

0109次韻公択舅

  公択舅に次韻す

1昨夢黄粱半熟   昨夢 黄粱 半ば熟す
2立談白璧一双   立談 白璧 一双
3驚鹿要須野草   驚鹿は要するに野草を須(もと)め
4鳴鴎本願秋江①  鳴鴎は本(もと)より秋江を願う

【通釈】

  公択おじさん[1]の詩に次韻する

昨夜の夢は、黄粱が十分に煮えぬほどの短い間のことでした。
かつて虞卿が立ち話で白璧一双をいただいた夢を、見ていました。
驚いて走る鹿が求めるのは野草でしょうし、
鳴く鴎が願うのは秋の川辺でしょう。

【任淵注】

①「黄粱」は上注(0104「王稚川既得官都下有所盼未帰予戯作林夫人欵乃歌二章与之(竹枝歌本出三巴其流在湖湘耳)欸乃湖南歌也」其二「蓋世功名黍一炊」の注)、参照。『史記』「虞卿伝」に、「趙の孝成王に遊説し、最初の面会で黄金百鎰、白璧一双を下賜された」とある。唐の王建(王維の誤り)の六言詩「田園楽七首」其二に、「再見して侯万戸に封ぜられ、立談して璧一双を賜る」とある。嵇康の「絶交書」に、「禽鹿、志は豊草に在り」[2]とある。

【補注】

[1]李常(1027~1090)、字は公択、建昌(いまの江西省永修西北)の人。母方のおじ(「舅」は母の兄弟)で、蘇軾の友人、王安石とも親しかった。黄庭堅は14歳で父を亡くし、李常のもとで学業を続けた。李常は新法に反対して地方に出されることになり、この詩はそれを慰めたもの。李常のもとの詩は伝わっていない。

[2]嵇康「与山巨源絶交書」、『文選』巻四十三。自分は『荘子』や『老子』を読んで放縦になり、世間での栄達を願う心は失せた、これは「鹿が小さい時に飼育されれば調教に従うが、成長してから束縛されると死に物狂いで綱を引きちぎって熱湯や火の中にさえ飛び込むようなもので、黄金のくつわで飾られても、おいしい御馳走でもてなされても、ますます深い林を懐かしみ、茂った草を求めるようなものです」という一節。